どう言えば心に届いたのでしょうか?

実は、この数行のエントリを書いた直後から、閲覧数が急増してしまって、「中国杯についてはまた後日」なんて書かなければよかったかも……などと少し後悔していました。羽生君の注目度に恐れおののいていたわけです。髙橋君についてあんなにたくさん書いたときの4倍ぐらい。ものすごい影響力がある人だと思いました。

確かに私は髙橋君については褒めちぎった記事を書き、羽生君にはきつい記事を書いています。もし、そのせいで、髙橋君びいきとか、羽生君嫌いとか思われていたら、それはちょっと違いますね。私にとって特別なスケーターは真央ちゃんだけです。

スケーティングは髙橋君のほうが好みかなあ。キャラ的にはどっちもどっちって感じです。

こう言えばわかりやすいでしょうか? 髙橋君が滑っている動画を数時間見ても飽きませんが、髙橋君がトークで出ているようなドキュメンタリーとかバラエティは30分も集中力が持たない……。我が家はJスポには入っていないので見ることはありませんが、たとえば今やっている11月のKENJIの部屋はネット上で見られたとしても、あまり興味をそそられないのです。

高橋君について書いた記事には敬意はこめましたが、愛情はこもっていないと思います。羽生君について書いた記事は言うまでもなくある種の怒りは込めましたが、愛情はこもっていないのは読んでくださった方々がお気づきのとおりです。

そんなことを考えていたのは、これを見たのがきっかけでした。英語のヒアリングがある程度できる方々は、羽生君についての特にジェニファー・カークさんのコメントのところを聞いてみてください。

2014 Cup of China Recap|The Skating Lesson

(最初から聞いた方がいいと思うけど、具体的には5分30秒あたりから)

今回の羽生君とハンヤンの衝突と演技について、これまであきれたり、恐ろしいなと感じることはあっても、涙なんて一つもこぼれませんでした。だからくどいほど「私には美談には思えない」と書いていたのですが、どういうわけかこれを聞いていたらなんだか泣けてきてしまったのです。感動するようなことなんて何にも話しているわけじゃないのに。

ジェニーさんが「もし私がブライアンだったらこうやって羽生君を止めていた」と言っているのに、私ははっとしました。なぜって主語が「私」だったから。「私だったらこうしていた」と言っていたから。

今回の件ではそれはもういろいろな意見を目にしました。でも、私の意見も含めて「羽生君はこうすべきだった」「羽生君は判断できなかった」「オーサーはこうすべきだった」「スケ連はこうすべきだった」「ISUがこうすべきだった」「大会関係者はこうすべきだった」「ルールはこうあるべきだった」というものばかりで、「私ならこうしていた」というような話は記憶にありません。つまり、多くの人が所詮3人称の他人事、人任せ、あるいは不可抗力という前提でしか話していなかったんですよね。

完全に聞き取れるわけではありませんが、

「(よしんば演技することをいったん認めたとしても)私がブライアンだったら、彼が最初に転倒した時点で、音楽を止めさせて、ジャッジに一言言ってから、自分で彼をかかえてリンクから出るわよ」

というようなことを言っているように思います(英語の得意な方がいらしたら、教えていただければ本当にありがたいです)。

私はそんなこと「小学生レベルの話だ」と思っていますし、実際、羽生君の周りにいた人たちはそんな断固とした口調で彼に言わなかったと思います。

でも、小学生レベルの話であっても「自分が」介入する意思を見せなければいけなかったんですよね。羽生君が本気でやるというなら、私は意地でも阻止する、それが私の自己責任だと。そういうお節介ともいえるような親身な言葉を誰かがかけていたら、もしかしたら彼は我に返ったのかなあ。

「真央が倒れたら、止められてでも僕が必ず助けに行くから」の逆の文脈ですかね。

私はこんな風に不思議に思っていました。

https://twitter.com/berryspoon17/status/532368161698373632

どんな理由があっても、どんな状況に置かれていたとしても、自分の言動は最終的にはすべて自己責任になる、といまも私は信じています。ましてや羽生君のように若くしてオリンピック金メダリストになってしまうと、それはもういろんな人たちが彼にぶら下がるようになる。その責任を負わなければならない。平たくいえば羽生君はいろんな利権や思惑にがんじがらめ状態ですよね。

多くの人は19歳の少年にそれを背負わせるのは酷だ、だからもっと甘くしてやってほしい、と自分以外の人々に頼みます。一方、私のような人間は、そんな虫のいい言い分は通用しない、19歳だろうともはやその少年の責任だろう、そうした立場にいる以上、嫌でも本人が乗り越えるしかないっと言って突き放します。

でももしかしたら、「私がその重圧を代わってあげる」、そこまで言わなくても「私が一緒に背負ってあげる」と、誰かがあのとき本気で彼に声をかけてあげるべきだったのかもしれませんね。それが親身になるということなのではないかと。

だからこの場合

「ヒーローになれない君を世界中の人が非難したり馬鹿にしたりするならば、その罵詈雑言はすべて私が引き受ける。私が盾になってすべて受け止めるから。だからお願いだから自分の身体を大事にして」

というのが、羽生君よりもドーパミンだかアドレナリンだかを発散させながら身近な人たちが彼にかけるべき言葉だったのかなあ。

金メダリストを指導しているというプレッシャーと、それに付随する何やかやの雑音雑務処理はえらく大変なことだろうとお察しします。オーサー師匠もがんばってください。